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第108話 打診と合意

Auteur: 砺波真帆
last update Date de publication: 2026-11-08 11:00:00

「私……お見かけしましてよ。蒼生さんの奥様を」

 目を伏せたまま、琴音は静かに笑った。

「ちょうど蒼生さんのご自宅の近くへ行く用事がありましたから。そのときに偶然」

「何だって? それはお恥ずかしい」

 徹生が大きな声を上げる。同時に急に饒舌になり、麻奈への不満を滔々と並べ始めた。反抗的、常識が疑わしい、おかしな趣味に没入している、育ちが悪い、云々。

 琴音は徹生の言葉を聞き流しながら、笑みを浮かべてじっと目の前のケヤキの大机を見つめる。

……そう。徹生のおじさまからご自宅へ招待を受けて、……つい。私との縁談を断ったあの人が、どんな方を妻にしたのか知りたくて。耳に入るのはよくない噂ばかり。本当に噂の通りに蒼生さんに女性を見る目がないのかどうか確かめたくて。

 表情を変えないまま琴音は唇の端を少しだけ上げた。

……本当だわ。どこから見ても平々凡々。その辺のビジネス街へ行けば何人でもいるような、制服を着て銀行回りをしているよく見かけるOLみたい。確かに、少し顔立ちは整っているかもしれないけど、お化粧だっていい加減、着てい
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  • 偽りの幻影   第108話 打診と合意

    「私……お見かけしましてよ。蒼生さんの奥様を」 目を伏せたまま、琴音は静かに笑った。「ちょうど蒼生さんのご自宅の近くへ行く用事がありましたから。そのときに偶然」「何だって? それはお恥ずかしい」 徹生が大きな声を上げる。同時に急に饒舌になり、麻奈への不満を滔々と並べ始めた。反抗的、常識が疑わしい、おかしな趣味に没入している、育ちが悪い、云々。 琴音は徹生の言葉を聞き流しながら、笑みを浮かべてじっと目の前のケヤキの大机を見つめる。……そう。徹生のおじさまからご自宅へ招待を受けて、……つい。私との縁談を断ったあの人が、どんな方を妻にしたのか知りたくて。耳に入るのはよくない噂ばかり。本当に噂の通りに蒼生さんに女性を見る目がないのかどうか確かめたくて。 表情を変えないまま琴音は唇の端を少しだけ上げた。……本当だわ。どこから見ても平々凡々。その辺のビジネス街へ行けば何人でもいるような、制服を着て銀行回りをしているよく見かけるOLみたい。確かに、少し顔立ちは整っているかもしれないけど、お化粧だっていい加減、着ているものも変だし、何より……。 その唇からくすりと笑いが漏れた。……なあに? なんの鍛錬をしていたの? 陽に焼けることも考えないで、朝から家の周りを走り回るなんて。普通は家庭に入ったらそういう趣味は控えるものよ。あんなことをひけらかしていたら家の評判を落としてしまうわ。もちろん、それを許している夫の評判も。 琴音が人差し指をそっと唇にあてて笑いを隠したとき、徹生が琴音の顔を覗き込むようにして声をひそめた。「あの娘は、一度家を出ているんだよ。結婚してすぐに。蒼生を見捨て、社長夫人としての責任も捨て、世間にどう見られるのかも考えないで」 その言葉に琴音は顔を上げた。徹生を見つめ、眉を少し上げる。「あら、それはいけませんわね」「その通り。あの階層の娘たちはわがままだし我慢を知らない。もちろん、負うべき責任を考えることもしない」 難しい顔をして首を左右に振る徹生に、琴音は微笑みかけた。「でも、何か我慢のできないことでもおありだったのかもしれませんわね。少しお考えが足りなかったこともあるのでしょうけれど」

  • 偽りの幻影   第107話 茶飲み話

     麻奈が見知らぬ女性と道端で会ったその日の午後。徹生の屋敷の門が大きく開け放たれた。白いベントレーがそこへ滑り込む。玄関の前、広い車寄せに静かに停まると後部座席から女性が降り立った。 朝、麻奈の前に立ったときには落ち着いたベージュのセットアップだったが、今は銀鼠色の正絹の和装に着替えている。淡い金と銀の糸で宝尽くしの柄を描いたアイボリーの袋帯。緩くまとめられた艶やかな黒髪。小さな真珠のイヤリングが耳元に留められ、シックなブラウンに塗られた唇が微かな笑みをたたえていた。「お嬢様、ようこそいらっしゃいました。旦那様がお待ちでございます」 出迎えた家政婦が膝をついてスリッパを揃える。深々と下げられた頭に女性は微笑んだ。「ありがとう。ご苦労様」 足元に揃えられた柔らかなスリッパへ足を通すと、女性は迷う素振りも見せずまっすぐに廊下を進む。そのまま奥の和室の襖に手をかけた。「参りましたわ。おじさま、お久しぶり」 ——草薙琴音(くさなぎことね)。 晴れやかな笑顔で襖を開けた琴音を見て、徹生は眉尻を下げた。「おお、琴音さん。久しく見なかったがますます綺麗になって。もうすっかり大人の女性だ」 琴音は柔らかな笑みを見せる。「嫌だわ、おじさま。私が歳を取ったと言いたいのかしら」 すっと部屋へ入り、敷かれた座布団の前へ膝をつくと、琴音は三つ指を揃えて優雅に頭を下げた。「草薙琴音、ご招待をいただいてこちらへ参りました。座布団を頂戴いたします」「どうぞどうぞ、座りなさい。琴音さん、お茶でいいかな? それとも若い人ならコーヒーか紅茶でも?」 眉だけではなく目尻まで下げて徹生は琴音を見やる。顔を上げた琴音を見て、満足そうにうなずくと、廊下で控える家政婦に目を移した。「今日は和装で来ましたもの、お茶をいただきますわ。おじさまは舌が肥えていらっしゃるから、お茶もとても美味しいはずよ。私、楽しみにしていましてよ」「では氷出しの玉露にしよう。今日は少し暑いからね。練り切りの美味しいのがあるから、それをお茶菓子にして、懐かしい話でもしようじゃないか」 それを聞くと、家政婦は膝をついたまま深く頭を下げ、襖を閉めて台所へ戻って行

  • 偽りの幻影   第106話 おはようございます

     数日後。麻奈は、山吹色のシューズを履くと、高級住宅街の道路へ走り出た。少しずつ力を増す陽射しに目を細める。「……もう夏になるのね」 あちこちの大きな家の庭に植えられた樹々の緑が揺れる。陽の光を受けて輝く緑を眺めながら走っているうちに、両側に瀟洒な家が建ち並ぶまっすぐな道へ出た。「……結婚して一年……いろいろあったけど、飛び出してから半年、戻ってきて数ヶ月。結局今は落ち着いちゃった。私、幸せ……かな、かなり」 少し走ると、上品な石作りの大きな屋敷の前へ出た。門の前で打ち水をしていたその家の女主人らしき年配の女性が麻奈にちらりと目をとめる。「……おはようございます」 走りながら麻奈は意識して笑顔を作った。が、女性は頭を下げた麻奈には気づかないふりをしてぷいと横を向いてしまった。……仕方ないわよね。 返されなかった挨拶のことは気にしないことにして麻奈は走り続ける。ただ、ペースが少し速くなった。ストライドを大きく取り、ぎゅっと唇を固く結んで前を向く。石作りの家はあっという間に麻奈の背後で小さくなった。……私はこの辺りの上品な奥様たちから見れば異物みたいなものだから。名前を知られた家の出でもないし、大人しくしているならまだしも、毎朝変な格好で道路を走っているんだもの、あの人たちから見ればどう扱っていいのかわからない存在なのよね、きっと。「仕方ない。ただ、私はそんなことをしないようにって思うだけ。……それしかない」 走りながら角を曲がると、大きな庭に囲まれた平屋建てのこぢんまりとした家が現れた。敷地をぐるりと囲んだ開放的なフェンスから綺麗に整えられた庭が見える。「おはようございます」 門の前で掃除をしていた女性が麻奈の姿を認めるとにこやかに声をかけた。「おはようございます」 麻奈も笑顔を見せる。この家の女主人は最初から麻奈を見ると笑顔を浮かべて声をかけてくれる。……うん。こんな奥様になりたいな。 軽く頭を下げると、麻奈は彼女の前を走り抜けた。……あの家の奥様だけ。私に何の偏見もなく声をかけてくれるのは。 こういう高級住宅街は、いわゆる一般の街に比べて町内会や自治会の力や結束が強い。力

  • 偽りの幻影   第105話 いずれは……

    第105話 いずれは…… 初夏の香りが辺りを包んでいた。空には明るい月が昇り、星々が小さく瞬いている。麻奈と蒼生が暮らす神崎家のある高級住宅街では既にいくつかの明かりが消え、夜を一層際立たせていた。 「今日の水羊羹、どうしたの? お前、いつもは和菓子を買ったりしないのに」 ベッドの中で蒼生がそっと麻奈を抱き寄せた。愛しげに麻奈の頬に唇を乗せる。 「うん、今日は暑かったからそんな気分だったの」 愛し合ったばかりの蒼生の体には少し熱が残っている。麻奈は蒼生の余韻でまだ震えている体を蒼生に寄せ、その胸に顔を埋めた。今日、徹生の家であったことを思い出す。 ……仕方ないわよね。お義父さんは最初から私と蒼生の結婚を反対してたんだもの。 「……麻奈?」 蒼生の声ではっと我に返る。心配そうに自分を覗き込むその目に麻奈は笑いかけた。蒼生の目はこんなに優しいのに。昼間見たあの目に優しさなんてかけらもなかった。 「あのね、蒼生」 麻奈は蒼生の首に両腕を巻きつける。 「……子供……欲しい……?」 「子供?」 蒼生は目を丸くして麻奈を見つめた。しばらくその顔をじっと見ていたが、やがて少し照れくさそうに目を逸らした。 「……いや……俺としては……」 天井を見つめたままぼそっと言う。 「……お前にそっくりな女の子とか……まあ男の子でもいいんだけど……とにかく、俺とお前の子がいたら、なんて考えたりはするよ」 「蒼生は欲しいの?」 麻奈は顔を上げて蒼生を見つめる。今度は蒼生の両腕がしっかりと麻奈を抱きしめた。 「……うん。いたら嬉しい。だけど、お前がそうじゃないなら、無理にとは言わない」 「……そうね。まだしっかり考えてなかったけど……」 子供は欲しいと思う。だが、自分には目標もある。マラソンで4時間を切ること。子供ができたら、それは少なくとも数年先に伸ばさなく

  • 偽りの幻影   第104話 義父の家で

     明るい陽射しが長い廊下いっぱいに降り注いでいた。『神崎徹生』と分厚いヒノキの表札が掛けられたいかめしい屋敷の奥、金銀の蒔絵が施された襖の後ろ、固い廊下の板の間の上に麻奈は正座していた。真っ直ぐに背筋を伸ばし、目の前の大きな座椅子に座る老人を見つめている。「旦那様が奥様にどうしてもお話ししたいことがおありだそうで……」  工藤から申し訳なさそうにそう言われて、麻奈はすぐにやって来た。徹生と直接言葉を交わしたこともなかったし、結婚式では不愉快そうにこちらを睨みつけただけだったから、あまり好かれていないことはわかっていた。でも、仮にも親子になったのだから、いつまでもそんな関係でいてはいけないだろうと考えた。それに、蒼生との間にも何か確執がありそうだ。自分が仲介できるとは思っていなかったが、それでもどんな人物かを知っておくのは今後のためにもいいだろうと思ったのだ。「……お前」 唸るような声を漏らした徹生に麻奈はしっかりと目線を合わせる。「勝手に出て行って勝手に戻って来たそうだな」「申し訳ありませんでした」 座っている廊下に手をついて麻奈は頭を下げた。徹生のいる部屋の外側の廊下。座布団はおろか、畳の部屋の中にも入れてもらえない。その外にある廊下に正座している。……普通だったら怒って帰っちゃうけど。 頭を下げながら麻奈は目の前の磨き込まれたヒノキをじっと見る。……仕方ないわね。結婚してすぐに別居しちゃったし、それでまた戻って来ちゃったし。お義父さんは事情を何にも知らないわけだし。気に入らないのもわかる。「蒼生は……」 徹生はケヤキの大机に置かれた灰皿を引き寄せるとタバコをくわえ、火をつけた。「蒼生は許したのか」……仲直りしたの。お互いの気持ちを確かめて、もう一度やり直そうって決めたの。 麻奈は顔を上げた。「はい」「だったら……」 タバコを深々と吸い込み、煙を吐き出しながら徹生は麻奈を見やった。「心を入れ替えてこの家に尽くせ。妻とはそうあるべきものだ」 麻奈の拳がぐっと握られた。唇が少し震えたが、少し視線を落として細く息を吐く。「……蒼生さんを大切に、お仕事の支えに

  • 偽りの幻影   エピソードゼロ 徹生の恋

     茹だるような熱気が地面から立ち上っていた。高く登った月にはぼんやりと靄がかかり、空全体が煙ったように澱んでいる。植えられた待宵草の白い花が灯をつけたように庭の底から浮かび上がった。 庭に面した長い廊下を徹生は歩く。スリッパなどは履かない。無垢のヒノキの感触が好きなのだ。素足のまま、ほとんど音も立てないで寝室へ向かう。ちらりと庭に目をやると、待宵草の花へと視線を滑らせる。可憐な白い花。朝になれば萎れてしまう儚い夢。……淑子(としこ)が来たのもこんな夜だった。 寝室の襖を開けると、広い和室の真ん中にポツンと寝床が敷いてあった。真っ白なシーツ。柔らかな夏用のブランケット。——ふつつか者ですがどうぞよろしくお願いいたします。 床の前で三つ指をつき、深々と頭を下げた淑子。横結びに垂らした柔らかな黒髪が真っ白な寝巻きに映えていた。伸びやかな、それでいて華奢な体。思わず見惚れるほどに美しい顔。優しげな大きな瞳で徹生を見上げ、目が合うとそっと俯いて、待つように目を閉じた。 だが徹生は知っていた。さっきまで白無垢に身を包み、徹生の隣で三々九度の杯を干したその女には別に愛した男がいることを。徹生との結婚を嫌がり、その男と駆け落ちを企んで失敗し、逃走から二日後には連れ戻されて結局ここへ来たことを。……家庭教師だったどこかの院生と聞いた。淑子を諦める代わりにどこか地方の大学の教職を差し出され、それを受けて姿を消した。残された淑子は俺のところへ来るしかなかった。決められた縁談相手の俺へ嫁ぐしか。 柔らかな布団に徹生は身を沈める。夏用の薄いブランケットで体を包むと、高い天井を睨んだ。徹生の喉が微かにひくひくと動き、小さなため息が漏れる。……俺は容赦しなかった。どうせその男と何度も愛し合った後なんだろうと。気に染まない結婚相手に義務で体を任せるだけの時間だ。早く終わらせてやった方がいい。 かまわなかった。他に愛した男がいようといまいと、俺の妻になったからには子を成してもらわねばならない。跡継ぎが必要だ。そのための女。裕福な実家と権力のある父、その後ろ盾を持った俺の妻に相応しいだけの条件を持った女。 苦痛と痛みに顔を歪め、徹生の体の下で声を漏らすまいと歯を食いしばった淑子を思い出す

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